Report2010
犬養道子代表より基金報告
難民支援協会からの報告
2010年 収支報告 

Report2009
運営委員会より活動報告
難民支援協会からの報告
2009年 収支報告 

Report2009上半期
犬養道子代表より基金報告

Report2008
犬養道子代表より基金報告
平野委員長からの報告

2008年 収支報告

【条約難民への支援】
 ・スグレさんからの報告
 ・ヘイマーさんからの報告

Report2007
犬養道子代表より基金報告
平野委員長からの報告

カクマ難民キャンプ訪問記
Tシャツ頒布のご報告
2007年 収支報告

【条約難民への支援】
 ・スグレさんからの報告
 ・ヘイマーさんからの報告

Report2006
犬養道子代表より基金報告
平野委員長からの報告
2006年 収支報告
【条約難民への支援】
 ・スグレさんからの報告
 ・ヘイマーさんからの報告


Report2005

犬養道子代表より基金報告
平野委員長からの報告
2005年 収支報告
【条約難民への支援】
 ・スグレさんからの報告
 ・ヘイマーさんからの報告

  

 

 

 

 

 

 


Report [事業報告]

◆2009年上半期 犬養道子基金報告

イゴール・ボラス(Igor Boras)とその家族。
詳しくは「(三)成功物語二つ。御礼に替えて」のA参照のこと

 

 「同情がすべてではない。しかし、すべては同情から出発する」と、カルカッタのマザーテレサは度々おっしゃいました。べつの表現を使うと次のようになります。「もし私が、今ここにいる一人ぼっちの貧民・窮民・異国からの難民(等)であったなら、ひとさまに何を一番して頂きたいか」。青少年少女の場合には、「一番して頂きたいこと」は、「学校に行けるようにして下さい。」「未来への希望を与えて下さい。」
 このひどい諸般事情にかかわらず、犬養道子基金に御厚志をお寄せ下さる皆様こそ、動乱流血の祖国を「逃げざるを得なくなって」日本国にたどりついて来た難民の中の青少年少女に希望と安心とを与える同情の使者たちでいらっしゃる。ありがたいという言葉では、とうてい表現出来ない深い感動を以て、あつくあつく御礼を申し上げると共に、皆様のまことの同情が生み出した明るいエピソードもこの報告書の中に。

(一)

 主人公の一人は秋田作夢さん。彼の大成功については後に書きます。日本国籍をめでたく取得したさい、彼の心を占めていたのは、入学・卒業を可能として下さった秋田県の大学の恩師・友人・支える仲間のことでした。彼らによって「こんごの夢が作り出された」作夢さん(本名はサムさん)。22年の努力ののち秋田医大を卒業、いまは国立医療センター勤務。

 動乱・流血の祖国ベトナムを夜間ひそか小舟(ボート)で脱出する人々(ピープル)がひきも切らず「東シナ海のドラマ」を生み出したのは1980年。人間の臭いに気づいてどの小舟のそばにも集まって来る鮫の口の中に揺れる舟から落ち込んで呑まれて行った子供の話などはいくらでも。狂乱の母は癒えることなく狂ったまま日本に到着。ボートピープルの悲惨なストーリーはいくつもありました。

 しかし生存率30パーセントとも言われた難民の人々をそのころの日本国と国民はどう迎えましたか。憲法を見てみましょう。その序文を・・・

「日本国民は・・人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し・・・専制と奴隷、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。・・・・全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」しかし日本は、国連の定めた国際難民法(1951年)に1981年まで参加しませんでした。世界で81番目というあまりにも遅い参加でした。

国際難民法とは・・・
 客観的に正当な根拠をもって説明することの出来る
 民族・信教・社会的立場・政治上の意見が何であるかによる。
 迫害や圧迫のおそれのために、
 自分の国にいられなくなって、
 自国外にのがれ、自国に帰ることが出来ない、
 あるいは自国政府などに対する恐怖のため帰りたくない国籍喪失者である。

いま現在、右の定義にあてはまる土地と人々の筆頭は民主政治を斥け軍政だけを布くミャンマーとミャンマーからの難民でしょう。

 さて、1967年アフリカにおける国連会議は右の定義に次のような文を加えました。
自国全土もしくは一部において与えられる極度の生命上の危険ゆえに自国土をはなれずにいられない人々が難民である。 (たとえば、部族間の極度の憎悪がつくり出す戦乱のため、死に直面して、嬰児を抱いて逃げ日本にたどり着いたアフリカ・ブルンディの女性のケース。)

 言いかえると、どれほど貧しくても、あるいは捕虜であってもイコール難民ではない。
くどいようですが、難民とは、「国を出ずには生きられない事情のもとで」、「パスポートも国籍説明書ももらうことが出来ないまま」国を出た人。出たとたんに、たとえ百万ドルの札束を持っていたとしても「どこの誰でもなく」「誰も保証してくれる人のいない」 ゆえに、不法滞在者としてたどりついた国の警察の捕縛対象者となってしまう人々。

世界人権宣言第十四条は、次のように書いています。
 難民を生み出す状態や情勢のもとに
 置かれたすべての人は、
 避難の場をさがし求め、
 他国内にその避難所を与えられる権利を有する。

 1951年という「遠い昔」に国連によって定められ、67年に追加項目が決められたインターナショナル・ルールを「インターナショナル大好き」の日本国(とからかわれた日本人)は、なんと1982年まで受け入れなかった。日本よりずっと小さく貧しい国々80もが受け入れていたというのに。

(二)

 ではいま、2009年どのくらいの数の人々が、どんな国から逃れ出て日本国に到着し、「法的に、難民であること」を認められて、在住を許可されているのでしょうか。

 一昨年2007年後半、難民認定を求める人々の到着が激増して来たことだけはわかっています。しかし、年度末三月時点で男女何百名、高齢者何名、青少年少女何百名というような数字は法務省によって明白にされていません。難民資格申請のために日本国をたよって「平和憲法の国だから」とたどりついて来た人々の中でも最も困窮していると認められた人に対し、国は、2008年度までは約八万円を毎月出していましたが、申請者激増の2009年度からは出さないと決めました。(ふしぎなのは、申請者全数が「不明」というかたわら、毎月一人当り約八万円を出す・・・どういうしくみだったのでしょう)。到着難民の詳細は「難民支援協会」[国連がパートナーシップを結んでいる団体]すらにも公には知らされず、日本国土に到着後ただちに収容所につれてゆかれるケースもあります。

 青少年少女数がはっきりせず、収容所内に(ほぼ二ヶ年くらいがふつう)閉じこめられるなら、難民青少年少女に対する教育―いつの日か祖国再建のための必要条件―を目標にすえた犬養道子基金の働きも難しくなります。十数年の体験にもとづいて基金の目標を少し変えました。つまり高校→大学というプログラムを生かしながらも、主眼をもっと実際的で卒業後ただちに日本でも祖国(例えばミャンマーなど)でも生かせる農業、酪農、漁業等を学べる技術学校の方に切り替える道を今後はとりたい。

 女性にはミシンの使い方、衣服のつくり方等の習える場をさがして奨学金を出す等々。幼児たちがいるなら、各地の幼稚園にもおねがいをする。同時に日本国に末長くいる(いなければならない)ケースのための日本語学校通学に今までよりずっとずっとウエイトを置く。等々。

 先述の外務省が出してくださっていた、いまストップとなった一カ月一人当たり八万円余については今後どうやって確保してゆくか。ひとつの団体ではとうていまかなえないゆえ、各団体とのチームワーク・連帯を育てて強化してゆく。

 さて、人につきものの病気をめぐっては、「主病院」聖路加国際病院のソーシャルワーカーは、驚くほど熱心・親身で、もはやいくつかの難民病者からの相談・治療を受けて下さっています。地方住まいの難民に対しては、その地域、地区の病院やクリニックを調べ、「聖路加として病者を紹介する」。このシステムが着実に動き出したときの難民たちの安心は大きく、安心したから体調も少しずつよくなったというケースもあらわれました。(ちなみに、申請が受け入れられると、健康保険も与えられます)。

(三)成功物語二つ。御礼に替えて

@
秋田作夢さん(サムさん)。
 ベトナム・ボート・ピープルとしてほぼ三十年前日本に到着。苦しむ「祖国の『あした』をつくりたい」から医学を志しました。未知の言語三つ(英語・ドイツ語・日本語)を必死で学びつつ、医大入試失敗に続く失敗の数年ののち、ようやく秋田医大入学、卒業。22年かかりました。卒業後は東京新宿にある国立医療センター勤務。そして昨年のクリスマス、日本国の医療チームの主任として「ベトナムに行って来ました。」北ベトナムに「本格的な医院・病院をつくるために」!まずは彼の専門の循環器・内科外科。「やる気十分の優秀なベトナム青年数人でスタートしました。医療器具一切はいまは日本から。やがて現地で製造ルートも敷きました。」その手紙を読みながら喜びのためにからだがふるえました。
 日本国のODAの一環だったでしょうか。彼の指令のもとにいま、ベトナム人の循環器医師が少なくとも五名育ちつつあります。「本格的病院が建つ」ことへの地元の人々の喜びと感謝と期待。「ぼくもドクターなる、私もナースになる」青少年少女の明るい希望。

ご寄付とお志はみごとに実ったのです。

A
 この報告書の表紙の写真の主は、イゴール・ボラスとその家族。アメリカのワシントン在。犬養との出会いは1993年。愚かな内戦によって、セルビア側の完全包囲。それこそ「ねずみ一匹も出入り出来ない」ボスニアの首都サラエボにカナダ軍用機で飛んだ犬養とイゴールは、窓ガラスはもはや一枚もなく、廊下も各室もめちゃめちゃの、旧カテドラルの一隅で出会いました。一般のニュース報道と違いそのカテドラルには、敵同志である筈の、ボスニア、セルビア、クロアチアの学生たちが、「たったひとつ、建物の三分の一がのこった」カテドラルに集っていました。夕ごはんはヨーグルト、スプーン一杯づつ。「サラエボ学生コーラス隊、そうMIF」は、そこで生まれたのです。イゴールは日と共に将来の「夢」を語りました。「世界中の人々(衆)の集る合衆国アメリカに行って、ぼくたちのような祖国喪失の人々に仕えたい。」
 アメリカが合法的に彼を受けいれてくれる法的準備を、他国のプレスの人々と共にやりとげたのは、犬養道子基金第一期の委員の一人、共同通信社の橋本明さんでした。首尾よく渡ったアメリカで、よき妻と今年九才となる息子アントン(名づけ親は犬養です)を得、昨冬は第二子も得ると共に、念願の「全世界から合衆の国に来る難の人々サポート」のNGOのリーダーとなりました。このNGOはアメリカ政府からも評価されていると聞きます。「サラエボでは苦しみぬいた。しかし今考えると、あの苦しみは、生みの苦しみだったんだね。」と書いて来ました。

 報告書というにしては長すぎる一文となりましたが、今回はMIFの新発足の時ゆえ御寛容下さいませ。
最後に、いまの姿でのMIFが生まれ出たときから、千葉県柏市の緑濃いキャンパス内に堂々と建つ麗澤大学の理事長室の一隅を、応楊に「全面的な支持もろとも」与えつづけて下さった広池理事長、中山学長、そして経理・銀行関係一切を「わがことのように」やりぬいてくださった鷲津経理部長に、盡きることなき感謝を委員一同ささげます。このような、無償の奉仕あってこそMIFは皆様の御寄付を着実に使い続けることが出来たのです。麗澤のみどりを私は決して忘れません。

 「世の中は暗い。経済はどん底」しかし、灯はともります。暗ければ暗いほど明るくともります。その灯は、幸いにもMIFにとって柏の森から、全国にまで。たとえば二十七年間、着実につづけられ、国連からの感謝状をすでに三回も受けた佐賀県の特別養護老人ホーム天寿荘からの五十円、百円の御寄付がついに1700万円余に達したこと。犬養道子の活動を支える市民の会・札幌ライラックの会(会長土橋信男氏)の年ごとのコンサート開催やMIFの内容紹介、犬養著書の勉強会・・・。

ありがとうございます                             

2009年6月 犬養 道子

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* 最近読んだ興深い一書:
「キリスト教と人権思想」サンパウロ社。2008年4月初版。
(MIF委員・柊暁生氏編、監修。執筆者11名。)人権とは何、人道とは何、をわかりやすく深く記述。
* 犬養道子 婦人之友・連載中
  歴史随想パッチワーク(2008年): 来年出版予定一冊は中央公論新社

 


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